【感想】にゃんたこ著『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』【抜き書き】

抜き書きと感想

『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』はYouTuberにゃんたこさんによる著書。

タイトル、装丁ともに目を引き、本屋で見かけても手にとっていただろうなと。

私はネット徘徊中に存在を知って予約しました。



にゃんたこさんのことも書かれたものの中身も知らないままに。

それくらいには何かありそうだったので。

文章はやさしく、私や他の誰かと変わらない、一個の人間の目線が貫かれていた内容で、とても読みやすかったです。



生きる中で感じる違和とか感情とか、知らずに抱え込んでいるものってあると思うんですけど、言語化されてはじめて自覚できるようになるようなものが。

あると思うんですけど、それをにゃんたこさんの本を通していくつか見つけられたので、だから読んでよかったなと。

何かありそう、という直感は正しかったということですね。



私らしくとか、思うように生きるとか、ありかたとしては全然やさしくありません。

問題ばかりでやりづらいったらない。

にもかかわらずそうありたいと思いつづけていられるのは、こういう人がどこかにいてくれるからなのかもしれないですね。



巻末に収録された猫蛸的短編小説も良かったです。

YouTubeチャンネル、登録しときます(買う直前まで存在を知りませんでした)。

以下、抜き書きと(どこまでも私的な)コメント

 みんなが嫌うから嫌う、みんなが叩くから叩く、みんながやるからやる、みんなが好きだから好きになる。自分以外の誰かに心の舵を取られて、自分のやりたいことが一体何なのかわからないまま、やみくもに流され続けていく。私の好きなものって何だっけ? 私のしたいことって何だっけ? 私の居たい場所ってどこだっけ? 気づけば他人の意思が自分の人生を乗っ取っている。(中略)人を嫌うなら一人で嫌いになれ。人を愛したら雑音を消して一人で愛し続けろ。

にゃんたこ著『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』p.17-18



私のかわりに生きてくれる人間はいない。

だけど私のかわりに考えてくれる人間ならいる。


私は用意された世界を用意された生き方で通り抜ければそれでいい。

用意された優しさを、悲しみを、怒りを、そのまま味わい尽くせばそれでいい。

受け容れるのも拒むのもそんなんは自由で、とにかくぜんぶに私らしく・・・・反応すればいい。


考えるな。

思考など過ぎた代物だ。

私は私を私と信じて私でない私を生きればいい。

疑うな。


私自身、自分がなにかもわからないまま流されて生きていたように思う。

十代の中頃までだろうか。

ほとんど欝状態にまで落ち込んで、そのあたりからだったと思う、本を読むようになったのは。


ものを考えるって簡単なようで実は難しい。

思いこみや決めつけに走って思考停止しちゃうなんてこと、珍しくない。


こういう経験をしたからこれはこうなんだ、とか、自分のときはこうだったからこれが正しいんだ、とか、誰かがこう言ったから、周りがこうだから、だとか。


わからないことなんていくらでもあるはずなのに、なんでもわかっているみたいな傲慢な気持ちになって、それでもやっていける環境がどこかにあって、しがみついて威張っていれば思うように暮らせて、だったらいつまでもそこで縮こまっていればいいよねって話なんだけど、なぜだか他人に干渉する、誰かをどうにかしようとする人間もいて、だからか世界はうるさくて、しょうもないなって思ってた。


自分のことに、集中しましょう。

自分が誰で、どういう自分で、どう生きたくて、どうありたいか、考えて、考えて、考えて、一人で、だってどうしたって私たちは一人ぼっちなんだから、考えて、私は私になるしかないし、なってやるんだよ。


 ある種の人間にとって、自分が他人につけられた傷よりも、自分が他人につけてしまった、もしくは、つけてしまうことになっていたであろう傷のほうが遥かに治りづらく、化膿しやすい傷なのではないかと。心臓に刺さって抜けない小さなガラスの欠片には、マキロンもオロナインも効かない。私たちはその欠片を、死んで灰になるまで抱えて生き続ける。

にゃんたこ著『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』p.81



私もある種の人間側の人間・・・・・・・・・・で、自分がしたこと、してしまったことをぐずぐずと抱えつづけるところがある。

他人と距離を置くようにしているのもそのためだ。


近づかないように。

近づかれないように。

処世術といえば聞こえはいいが、ただ臆病なだけなのかもしれない。


しかし、無暗に関わるよりかはたしかにずいぶん平和・・なのだ。

私を私でなくしてしまうくらいなら、誰かの欠片を増やしてしまうくらいなら、そんなものだって大事に抱え込んでどこまでも気持ちよく生きてやればいいんじゃないか。


いつからかそう思うようになった。

でも、これはきっと正解じゃないし、そもそも人生に正解なんてものはなくて、それでも選んだ自分がこれで、たとえ後悔しても、変わりたくはない。


 できないことをできないまま生きていくことは、そんなに悪いことなんだろうか? と大人になった今、強く思う。私にできないことは、できる誰かがやればいい。そのために、この地球には七十五億もの人間が存在しているのだ。

にゃんたこ著『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』p.84



私にできることなんてそう多くない。
というよりほとんどない。



ネットでもリアルでも、すこし見渡せば他人や世間や社会に影響を与える何かしらが溢れているのが現状で、あるいは私にだってそういうものを創造できるのかもしれないけれども、たとえそうだとして、じゃあたったひとりですべてを形に出来るかというと、きっと難しい。


誰かがつくった何かに乗っかってものを言っているだけで、もうある何かに寄りかかって自分を支えてるだけで、そんなふうにしか私は立てないし歩けてもいない。

きっと、これからもそうだろう。


できることをできるように、望むようにやればいいんじゃない。

誰に認められずとも、誰がなんと言おうとも、いやもちろんやっちゃいけないことってのはあって、大変なことになるからそれは、そういうのは置いとくとしてね、そうじゃないことならなんだってやっちゃって、あーいまめっちゃ私やってるわーとかそんくらいの太々しさで生き延びていきたいよね。


 共感されればされるほど、ぬるま湯につかっている気分になった。
 ひとりぼっちで完結していた世界が、誰かの共感を得てひとりぼっちの世界ではなくなってしまったからだ。
 なんとなく昔から、ひとりでいればいるほど、傷つけば傷つくほど、優しい人間になれると思っていた。他人に肯定されて甘やかされ続けると、自意識が肥大して傲慢な人間になってしまうんじゃないかと。だから「どうして?」と聞かれるような選択ばかりしてきた。共感されるより、否定されることを望んだような選択ばかりを。否定されたい、というわけじゃない。ただ、安易に肯定されたくなかった。

にゃんたこ著『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』p.121-122



優しさには依存性がある。

肯定されると癖になる。

期待し、望み、引きだすための振る舞いに心を砕くようになる。


しかしそれだと自分自身ではなくなってしまう。

私の人生ではなくなってしまう。

反発したって同じことなのだ。

誰かや何かに私を規定されている以上は。


だからかな、否定も肯定もない、白と黒では語りえない、ふわふわと、なにともつかないどこかを漂う、そんなありかたの許される環境があるのなら、私はそこに居続けたいと思うし、つくれるものであるならばつくってみたいと思っている。


でも、きっと一人でないと無理だよね。

誰かと一緒に、なんて。

たとえいるのが自分のクローンだったとしても、うまくなんてやれない自信が私にはある。


肯定されたいとは思わない。

否定されたいとも思わない。


だけど、一人はさびしいことで。

なんて、誰とどんなに一緒にいたって私たちはどこまでもひとりなんですけれども。

ただ、そばに誰もいないさびしさとわかりあえないさびしさって種類がちがうじゃないですか。


この場合のさびしさは後者の意味のさびしさで、うん、そういうさびしさだって悪いものじゃない、どういうさびしさだって悪いものなんかじゃない、わかってる、でも拭い去ることのできないさびしさだから、時々だけど、悲しくなる。

むずかしいところだよなって思う。


 正しくいたいと思う。世の中がどうとか、周りがどうとか、全然関係ない。自分が正しくいたいと思う。自分の正しさを、他人に求めなければいい。声を上げて主張するようなものなんかじゃなく、自分だけが知っていればいい。
 冷蔵庫に眠らせたハイボールと冷蔵庫に眠らせたハーゲンダッツ、これ以上も以下もいらない。私が今日を生きていくのに必要なものは、私が知っていさえすればいいのだ。

にゃんたこ著『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』p.140-141



生きていると正しさ同士のぶつかりあいに巻き込まれることがある。

外界とのつながりを絶たないかぎり避けられない事態なのかもしれず、だから最小規模の生活を送るよう心掛けているのだけれど、すべてを切りはなしてやっていけるわけでもないし、できるとも思っていないし、事実そうなってはいない。


色々な関係のなかにいくつもの正しさが渦まいて、言葉や行動へと置きかえられ、衝突してゆくものなのだ。

好むと好まざるとにかかわらず、そういう今日を私たちは生きている。


わからせたいとかわかられたいとか、そんなことを私たちは考えているし、わかるべきだとかわからなくてはならないのだとか、そういうこともたぶん考えている。


でも、どうなんだろうね。

そうありたいかときかれたら、そんなわけないでしょって私は答えるけど。

どんなに腹を立てていても、そうじゃない時間、正しさなんて知らんって時間のほうが長いんじゃないかな。


主張しなければ変わらないことだってもちろんあって、理不尽、不平等、不寛容、様々な問題を私たちは抱えているのだけれど、中には私の問題ではない問題もあるはずで、知らない間に余計なものまで背負っているんじゃないかな。

誰かに背負わされたわけのわからない正しさのためにしなくてもいい戦いをしているんじゃないかな、どうなの。


いらないものはいらないと捨てていける私でありたい。

いらない正しさに私自身の正しさを上書きされるなんてまっぴらごめんだ。

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